細沢敗退、奈良田の夜
実施日:2024年8月24日
山 域:南アルプス
参加者:高柳達志
行 程:6:28広河原バス停(7:00発)→(バス)→7:20野呂川発電所バス停→8:10弘法小屋尾根取り付き地点→9:15細沢出合→10:40大滝→12:00引き返し点Co.2000→14:50細沢出合→16:15野呂川発電所バス停(16:58発)→(バス)→17:30奈良田
間ノ岳東面にスプーンで山肌をスッとすくい取ったような綺麗なU字谷があり、そこを直線的に流れ下るのが細沢だ。静かなカールの底で星を見ながらのんびり眠るのは気持ちよいだろう。夏の締めくくりに、細沢を遡行しカール泊、間ノ岳に上がって池山吊り尾根で降りてくるルートを計画した。
しかし、天気予報はすぐれず、読めない。少なくとも晴れることはなさそうだった。前日、予定通り行くか決めあぐね、準備をする気も起きず、街で酒を飲んで自宅に戻る。とりあえず3:00にアラームをセットして、明朝の気分で決めることにした。
朝目覚めると、どうやら行きたい気分だったのでパッキングして甲府駅へ向かった。奈良田へ一人夜道を運転する気は到底起きなかったし、他の登山者と一緒にバスに揺られれば気分も多少高まるだろうと思った。なので、野呂川発電所に着くのは当初の予定よりも1時間20分ほど遅れることになった。林道を行くバスから、間ノ岳はくっきりと見えた。行けるところまで行ってみよう。
弘法小屋尾根取り付き点までは前々週の北沢ルートと同じだ。水の量も変わらない。そこからさらに河原を歩いていくと、巨大なスリット堰堤が現れる。スリットの左側を抜けて、堆積した土砂で広い河原を左岸側へ横切ると、カラマツ・ヒノキの人工林がある。事務所にいたころ、施業ができそうだと目をつけていた場所だ。林内に作業歩道が通じていて、ピンクテープの目印とロープをたどって急斜面を上がり、小尾根を越えると、カラマツが静かに並ぶ平地が現れる。さらに脇を川へ降れば、細沢出合の取水施設に至る。
細沢は名前の通り、細い。予想以上にブッシュ、倒木が多い。ブッシュはアザミなど棘のある植物ばかり、悲鳴をあげながら藪を漕ぎ、倒木をくぐったり乗り越えたりする。岩はヌメヌメで、ヒゲのような苔もたくさん生えている。面倒だ、背中を押してくれるメンバーもいない、うんざりしてくる。
Co.1730大滝20mは登れないから左岸を高巻いた(写真1)。草付きを歩きやすいところを辿っていくと、難なく滝上に出ることができた。続いて10m程度の滝が2つ現れたが、巻きの踏み跡はあまりなく、どこまで高巻くか迷うことが多かった。単独行だから自ずと足取りは慎重で、時間がかかってしまった。
Co.2000ほどに来るとブッシュは減って沢は開けてきた。20mほどの2段滝が現れる(写真2)。上段は左岸を巻いて草付きのバンドを辿れば越えられそうだが、ワンポイントほぼ垂直の移動が必要そうだ。巻きに取り掛かるが、怖い。一度戻って考える。空身で登ってザックを引き上げることも考えたが、引き上げラインどりがわからない。
このとき、12:00。あと1000m上がらないといけないし、まだ滝があるかもしれない。さらに濃い雲が現れ、雷が鳴り始めた。これから沢はさらに開けて雨に打たれることは確実で、寒い夜を過ごすことが想像された。それにガスに巻かれると、広い間ノ岳で迷うことになりそうだ。一気に萎えてしまう。引き返すことに決めた。しかし、これまで登ってきた滝を安全に戻れるか心配だった。
ますます雲は濃くなり、急いで降りる。懸垂下降は4回で済んだ。降り始めに振り出されるような懸垂が一回あった。大滝は草付きをギリギリまで慎重に降り、最後懸垂して川に降りることができた。一安心したが、ここで土砂降りになった。雷も近い。滑るので一歩一歩ゆっくりと降りた。カラマツ林内か、林道で眠るつもりでいた。
取水施設までもどり、カラマツ林内へ戻るともう大丈夫だ。とりあえず歩き続け、野呂川発電所バス停まで戻った。雨は降り続いていた。
最後の奈良田行きのバスがあったから、とりあえず乗り込んだ。奈良田に行ってもその先はない。雨の日に迷い込む深山の温泉宿で、なにか面白い出会いがあるかもしれない。
温泉の番頭に聞くと、奈良田にはいま宿がないという。困った、どこかでテントを張らせてもらえないか。しかし学生でもないのだからできれば避けたい。困り顔で佇んでいると、奥で相談していた番頭がそういえばと、営業しているのかわからない新しい民宿を教えてくれた。
さっそく電話してみるが通じない、建物を覗き込むが真っ暗である。窓は開いていたから何度か声をかけると、髪を後ろに結んだ男性が現れた。交渉すると、まだ準備中だが、それでよければ泊められるとのこと。僕が初めての客になるそうだ。やっと安心して温泉に戻り、湯に浸かった。
宿は、都内で主に活動する写真・映像作家のオーナーが、旧家の屋敷を買い取り、アトリエ兼民宿に改装したものだ。屋号であった「水乃口(みのくち)」が宿の名である。奈良田の地に惹かれてアトリエを構えることにしたが、せっかく広いのだからと民宿もやることにしたそうだ。登山者を泊めることを想定しているだけでなく、サウナ、野外シアターも作って「山の熱海」を目指す計画とのこと、面白い。
持ち込んだ食料で炊事をしたあと、マッサージチェアでくつろぐ。オーナーの作品が載るという『プレイボーイ』を初めて熟読した。経済誌『Forbes
Japan』に並ぶ経済人の撮影者にもオーナーの名がある。パラパラめくるが、頭には入ってこない。
写真、映像制作の現場や取材の話を聞きながら、夜はすぐに更けていく。最近の画像処理ソフトの発達は著しく、カメラの性能はさほど重要でなくなり、綺麗な女の子の肌も幾重もの調整で仕上がる。それでも、撮るひとによって同じ被写体が醸す雰囲気はまったく異なるという。一つのポートレート写真も、様々な関係者の思惑の中で完成する。
虫の鳴き声が大きくなっている。やはり、迷い込んだ深山の宿で、面白いことは起きるのだ。布団に寝転び、豆電球の光を眺めながら眠りに落ちた。
(高柳)