エベレストBCとカラパタール登頂の旅

実施日:2024年3月31日~4月22日
山 域:ヒマラヤ山脈
参加者:鈴木文代(トレッキングツアーに参加)

 


令和6年3月31日、成田エアポートレストハウスに前泊する。明日は朝7時空港第1旅客ターミナルビル北ウイング4階のkカウンター前集合だ。一年前の春に申し込み、ようやくの実現となった。
4月1日成田発9時20分、ソウルの仁川空港にて 関空よりの2名と合流、客10名男性8名女性2名とツアーリーダーの松本の11名の旅の始まりです。
ネパールの首都カトマンズ・トリフヴァン国際空港に予定通り夕方15時30分着。時差は3時間15分遅い。この夜は専用車にて市内の高級ホテル、ラディソンへ直行。夜の空港前通りは人と車とバイクで道路は埋まり電線は引っ張り放題。蜘蛛の巣状態で物凄い喧騒、空気も悪い。ほとんど信号無し、どうして道路を渡るのだろうか。が第一印象でした。
30分ほどでホテルに着く。運転手は慣れたものでホテル着、現地時間の19時頃でした。明日は早朝2時出発、山の準備のトレッキング用の大きなダッフルバックと寝袋を渡された。このバックがこれからヤク達とのキャラバンの荷物となる。
4月2日ホテルを2時出発。これより5時間悪路の山道ドライブの果ての国内線ラメチャップ空港へ、朝食用のボックスに林檎、みかん、サンドイッチなど入っていたが暗くて食べる気に慣れなかった。
峠を幾つも越えたので車酔いの人が多かった。途中一度トイレ休憩をしてコーヒータイム、朝8時のフライトへ間に合うための早出だが皆5時間は辛い様だ。午前の天気が安定している内に飛びたいとのことだ。ラメチャップからルクラえは15人乗りの山岳飛行でプロペラ機。谷間を飛んで行くので少し揺れたが、山々の景色に見惚れていた、30分でルクラ2840mに降りた。別名世界一危険な空港と呼ばれている。谷より斜面を上り右に90度曲がり着陸する。4機止まれる。
明日からのトレッキングと高度順応のため村を散策しゆっくり過ごす。ルクラに嫁に来た日本人女性の店があると聞き皆でお買い物、ポケットに柿の種のお菓子の袋があったので彼女に渡したら大喜びしてくれた。
この夜ロッジにてこれよりの旅のガイドシェルパ、キッチンスタッフ計14名の紹介を受けた。連れるヤクは8頭とのこと。このチームはNHKBSプレミアムのグレートヒマラヤ撮影日誌の番組のシェルパ、ニマさんが率いるチームであった。何回も見ていたので、そのニマさんに会えて私は大感激、なんとラッキーなことでしょう。
トレッキング1日目4月3日、ルクラからモンジョ出発8時、5時間の予定。休みを入れて7時間10分かかり、これからが心配だった。長い鉄製の吊り橋を幾つも渡り、昔の吊り橋の上部に現在の吊り橋が渡されて、空中に二本の吊り橋を見上げる河原で写真タイム。ここで一句。
吊り橋の下の轟音雪解川
モンジョのロッジから小さな寺が見えた。
トレッキング2日目4月4日、モンジョ発8時ナムチェバザールへ3440m、谷沿いの道をジョサレ2840mをたどり世界遺産のサガルマータ国立公園に入る。入山料はここで払う。高度差600mの坂をゆっくり登りシェルパの里ナムチェへ。


大きな村、山肌いっぱいに家があり村の真ん中あたりに水場がある。三段になっていて洗濯している人が10人位いた。右側の川は水車で大きなマニ車が勢い良く回っていた。この日は4時間の予定で だいたい11時40分着だった。午後はゆっくりロッジで過ごしナムチェバザールのお土産を見にゆく。
今日の一句。
山岳の民の絨毯旅の荷へ
お土産にハンドメードの小鳥の柄の小さな絨毯を買った。毛糸帽600ルピー、EVERESTBC5365の刺繍あり。同室のKさんと色違いで買う。ナムチェまで来ると山の雰囲気が変わってきた。コンデリ山群6036mが背後に大きな白銀の山塊を現している。前方にはタムセルク7634mその先にカンテガ等々そそり立っている。
トレッキング3日目4月5日、ナムチェ発8時 ホテルエベレストビュー3841mを経てキャンズマ3600mへ。この日は朝から急な石段や坂を登って、ヒラリーとテンジン広場からエベレストを望む。パイロットの様な服装の二人の像の背後にヌプチェ左、右ローツェ、その中央奥にエベレスト。まだ遠いいが、よくわかった。右後ろに吊り尾根のクスムカン、タムセルク、カンテガ。少し離れてコーンの様なアマダブラグ6000m級の山々が高々と聳え、これよりの旅の道連れとなる峰々の序章である。絶景と共にエベレストビューホテルへ着く。全員で写真を撮りテラスにて紅茶とビスケットタイム。しばし優雅な気分でエベレストを望む。天気は毎日快晴、5時間の予定だったが11時50分キャンズマ着、この日の昼はうどんに天婦羅の大皿盛りに歓声上がる。
今日の一句。
エベレスト目指すロジの春暖炉


この夜から湯湯婆頂いた。寝袋の中は南国の様だった。
トレッキング4日目4月6日、キャンズマ発8時タンボチェ3870mへ。一旦ブンキテンガへ下り620m上り タンボチェへ登り2時間。だいたい予定通りで11時40分着。登山道脇の林に国鳥の虹雉がいた。トップシェルパが見つけて教えてくれた。私は何時もセカンドなので見えたが後の人は分からなかったようだ。日本のキジより色が鮮やかで金茶の背色の光沢が独特だと思った。
タンボチェは寺院のあるロッジで、着いてタンボチェ寺院を見学する。壁画の色が鮮やかで堂内を一回りする。高僧に旅の安全を祈ってもらう。お守りとして赤いリリアンの様な糸のネックレスを首に掛けて頂いた。お寺を出て左奥へ進むとエベレストが見える丘がある。1982年日本人として初めて冬期エベレスト登頂に成功し、帰路に遭難死した登山家、加藤保男の慰霊碑が立っている。
今日の一句。
縦走を優しくつつみ山笑ふ
トレッキング5日目4月7日、タンボチェ発8時パンボチェ3980mへ。早朝ロッジでは浄めの御香を炊く。杉の小枝の様な植物を燻らせ大量の煙を出す村中に流れる香の匂いを私は好んだ。今日の予定は3時間だったが2時間で10時にはパンボチェのロッジに着いた。昨日より110m高い村でこの村でも川で女性達が洗濯をしていた。
この村は定住村としては最奥の村だ。村の名前がややこしやです。高度順応もありゆっくりと過ごす。道の中央にマニ経を書いた岩が在ると左側を通ることになっていて、上下道ともぶつかることなく人もヤクも通り過ぎて行く。
パンボチェの村はアマダブラムへの分岐の地であり、右側はアマダブラムBCへの道標があった。この村からアマダブラムを見た時、昔読んだ本の一言 お母さんの首飾りの言葉が急に頭に浮かんだ。本の内容も誰が書いたも忘れていたこの言葉が山を見てこれだったんだと思い出し確信した瞬間だった。


この夜は蠍座と天の川を見た。目が慣れると天の川が長く長くなり反り返るのが大変だった。
今日の一句。
蠍座に刺されし雫天の川
パンボチェのロッジの窓には左にエベレスト。前方はアマダブラムの見える角部屋で最高だった。
トレッキング6日目4月8日、パンボチェ3980mからティンボチェ4410mへ。この日早朝ロッジの窓にエベレストの右側ローツェからの朝日と前方のアマダブラムのシルエット、彼方後方には朝焼けのコンデリ山群を拝み写真に収めた。
朝8時出発。広々とした河原で日本庭園の様な這松の高所をゆっくり歩きティンボチェへ。3時間20分でロッジチョモランマに着いた。ここは連泊の予定宿だ。私は高度順応がうまくいっている様で何ともないが、すでに何日か前から数人の男性が食事をうまく取れていない様だ。このロッジに連泊し、もう一段階の高所順応をする。
午後はロッジ村でゆっくりして明日のナンガソンピークに登るため身体を休める。ロッジ村の奥にローツェが正面に見える谷があり30分位歩いてみる 荒涼とした谷間の奥にその存在感を増していた。右側にはヒマラヤ襞の美しい二枚の岩壁が見える。カンレモと言う名前の山だ。
今日の一句。
荷役終へ草食むヤクの瞳かな


トレッキング7日目4月9日、連泊にてピストンでロッジ裏のナンガソンピーク5075mへザックなしで登る。その朝食の時衝撃が走る。仲間の一人の男性が高度障害のため、山をヘリコプターで降りるとの発表が御本人よりあり、苦しくも涙の別れとなる。同じ鈴木同士で仲良しだったので何か貴方のハンカチなりを私が持って登るのはどうですかと本人に小声で聞くと、涙をこぼして文代さんは本当に優しいねと首を横にしながら言って下さった。彼はフルマラソン30回以上完走した体力に自信のある人で私より二歳上でした。
朝食後私達は高所順応のための登山を開始する。 山頂へ立てば世界6位までの内の4峰が見えるとのことだったが、目標は4800mだ。その登山の途中で彼の乗ったヘリが飛び立って行き、山腹から大きな声で名前を呼びステッキを振り彼の無事を祈った。
この日の登山は目標の時間までに4880mまで登ることができたが、美しい絶景とは裏腹に又一人体調の悪い人が出てしまった。下山しての午後私は一人でロッジ村のメイン通りを散策しながら、人々の生活や畑や牛など見ながら吟行していた。
日本人ですか? と声を掛けられた。若い日本の女性だった。一人で世界を回っているとのこと、日本人に会いたかった。1ヶ月も日本語を話していないなどなど、私は3時のお茶にロッジえ招いた。シェルパのニマさんにもOKをもらい、ツアーリーダーの松本さんも快い返事をして下さり思い掛けないお茶会となり皆で色々の話をした。彼女のスリーパス三代峠を越えてカラパタールとゴーギョピークに登る山の話に聞き入る。シェルパと二人で、十数日で私達の倍くらい歩くとのこと。彼女と通信で繋がり、その後毎日彼女の上げる情報を聞きつつの登山となる素敵な出会いだった。
今日の一句。
春愁やヘリで下山の友送り
トレッキング8日目4月10日、ティンボチェ4410mからトゥクラ4462mを経てクーンブ氷河の末端の斜面を登り詰めロブチェ5030mへ。
この朝は一面の雪景色で真新なベールの山々を望みながらの出発となる淡雪は日が昇ると直ぐに溶け 埃おさえになった。クーンブ氷河の末端のモレーンを登りきると開けた峠に出る。ここはエベレスト登山で亡くなったシェルパ達の墓碑チョルテンが建ち並び五色に経文の書かれた祈じゅ旗タルチョが風に千切れんばかりに旗めいていた。ここはグレートヒマラヤ撮影日誌でも映っていた所なので感慨深い。
今日の一句。
春雷や五色の祈じゅ旗唸る丘
トレッキング9日目4月11日、ロブチェから最奥のロッジ ゴラクシェップ5100mへ。これより奥はロッジ無し。今日は長丁場なので朝7時出発。ゴラクシェップ着9時30分。ロッジで休憩を取りゴラクシェップ発10時10分。エベレストベースキャンプへ出発。予定では先にカラパタールへ登るはずだったが ベースキャンプへ先に行き、明日カラパタールへ登ることになった。エベレストBCへ向かって岩場の尾根を登り1時間半ほどでBCへ下る。下降点に11時45分着、下降点近くの岩場に雷鳥が二羽いたまだ白い羽にグレーが少し入っている様に見えた。思い掛けなくエベレストと雷鳥が写真に映っていた。EBCへの下り急坂を登り返すことを考えると一寸心配だった。二人のメンバーは明日のカラパタールに体力を残すため、下降点に残ることになった。


エベレストBCの奥には何百というテントが張られていた。手前には七大陸サミットクラブの大きなドーム形テントが二張り陣取っていた。落ちたら助からないという氷河の縁を歩き、写真を撮って早早に尾根の登山道に戻る。まだ昼を食べていなかった。シェルパがゴラクシェップのロッジからランチを運んで来てくれた。出会った岩場で食べる。13時20分頃だったが、お腹が空いていたので美味しかった。揚げパンのサンドイッチみたいな物だ。この後ロッジまで帰るのにへとへとだった。皆無言の行進で、ゴラクシェップ着16時。一つ目の山場を越えた。
今日の一句。
雷鳥の番エベレストは雲に
トレッキング10日目4月12日、いよいよメインのカラパタール5545m登頂へ。ゴラクシェップ5100mより 朝6時出発、予定では最奥のロッジ、ゴラクシェップにもう一泊だったがメンバーの体調を考え下のロブチェに泊まることになり、今日も長く厳しい登山だ。


いよいよカラ パタールへのアタック開始。ロッジの白い砂地の広場を過ぎて登りになる。登り出して10分、呼吸の仕方が分からない位苦しかった。何度も何度も小休止を入れてくれた。445m登るのに2時間15分、何度も心の中で4人の孫達の名前を繰り返していた。
やっとの思いで山頂に立つ。メンバーの一人は馬で頂上直下まで行った。山頂には真っ白な三角形のプモリ7149mが覆い被さるかの如く聳えていた。一人ずつ写真をシェルパに撮ってもらう。エベレストは正面からその核心部を見せてくれた。抜ける様な青空の中に。動画を撮りシェルパ全員とも記念写真を撮る。皆さんにコーヒーキャンディを配り乾杯とした。
8時45分下山開始、下りは嘘の様に楽だった。登頂の満足感溢れる笑顔で皆高揚していた。10時ゴラクシェップのロッジ着、顔を洗いランチを頂く。ランチを済ませロブチェまで下る準備をする。11時50分最奥のロッジ、ゴラクシェップを出発、ロブチェ着14時10分、ロブチェまでの下りは長いけど楽しかった。氷河の小さな流れの音を聞く余裕も生まれていた。
今日は8時間10分の長く中身の濃い1日だった。ロブチェのロッジに着いたメンバーの一人が体調悪化、ずっと咳をしていたがとうとう診療所に行くことになり、馬で2時間、ニマシェルパと二人で夕暮れの中を下る。診療の結果によってはここでお別れになるかもと言うことで心配だ。
今日の三句。
エベレスト真正面に風光る
馬で立つ山頂直下春惜しむ
氷河風ふと止み水の幽かな音


トレッキング11日目4月13日、ロブチェ5030m、8時出発 ペリチェを経てパンボチェへ13時45分着。ペリチェで昨夜診療を受けたK氏は 無事合流することができた。ペリチェで昼を食べた。この日はネパールの正月とのことでダルバートと言う地元のカレーをシェルパ達は右手で器用に頬張っていた。


食後パンボチェへ向かう。下りはゆっくり歩いても早い。トレッキング5日目と同じロッジに泊まる。その夜鍵トラブル発生。A氏の部屋の鍵が故障、合鍵も無くなんとしても開かない。とうとうドア横の壁板幅50センチを外して、シェルパが中に入って 中から開けた。小さなロッジなので大歓声が響いた。
今日の一句。
雪解川村の真ん中洗濯場


トレッキング12日目4月14日、パンボチェ発クムジュンへ朝8時出発。クムジュンは登りには通らなかった村。この村は大きく豊かな村であった。ヒラリー卿の作った小学校ヒラリースクールが村の中心広場にある。夕暮れになると広場の寺に灯りが点り、仕事を終えたゾッキョやヤクや馬達が広場に集まって来る。旅情深まる光景に心引かれる。人も家畜も過酷な環境の中で暮らし精一杯の一日が暮れてゆく。アマダブラムが夕焼けの残照の雲の上に薄紅の山頂を高々と望かせていた。
今日の三句。
糞燃の炉煙すこし目に染みる
山暮れてシェルパのスープあたたかし
旅人の暖炉は民の煮炊きの火
トレッキング13日目4月15日、クムジュンからナムチェバザールへ。旅も終盤になり予備日の調節歩きとなって来た。クムジュン村はシェルパ族の聖山、クンビラ5761m、山の麓にありネパールで最も古い寺院 クムジュンコンパがある。コンパは寺火災がなかったので古い経典がそのまま残っているとのこと。お参りする。本堂には雪男イエティの頭の皮と言われている物がガラスケースの中にあり、鍵が掛けられていた。
少年僧も大勢いる。お寺の庫裡では女性達がきれいな民族服で料理をしていた。正月三日の法要が行なわれるそうだ。その後通学路を登り峠に出る。ここで最後となるエベレストを心ゆくまで満喫すること一時間、タンボチェを経てナムチェバザールへ11時着。
今日の一句。
石楠花やシェルパ聖地の古刹なり


トレッキング14日目4月16日、ナムチェからベンガへ。予備日消化のため毎日少しずつ下りながらルクラに向かう。この日も11時30分にはロッジに着いた。小さな滝のある宿で新築したばかり。かつて三浦雄一郎も泊まった宿とのこと。夕方宿の裏庭で一緒に旅をして来たヤクの角にオイルを丁寧に素手で塗っている若い牧童の姿に感動した。百花繚乱の中を暮れてゆく。私のいち押しのシェルパ、ギャルゼンはインド隊の仕事で一足先にルクラへ下りた。昨日ナムチェに着いた時ステッキを振ったら答えてくれた。 あれが別れの挨拶となった。ギャルゼンは若い頃の主人に似ていた。
トレッキング15日目4月17日、ベンガからタドコシへ2時間35分の歩き。吊り橋を渡るにも人も動物も渋滞で、まさにベストシーズン橋を渡り切るとヒマラヤ桜の満開で地面にも花びらが沢山こぼれていた。午後桜草の写真を撮っていたら現地の少女が話し掛けてきた。分からなかったが優しい笑顔が私を癒してくれた。
トレッキング16日目4月18日、タドコシからルクラへ、ようやくルクラだ。今夜はこの旅の打ち上げパーティー、チキンゴロゴロのカレーに野菜、SEE you AGAIN の大きなケーキまで作ってくれた。日本の梅酒と地酒のチャン、シェルパのダンス皆で踊って楽しい夜だった。
4月19日、ルクラより朝の一便が4機出ただけで霧のため私達の三便は出ない。ルクラ滞在となる。この間ルクラには下山のフライト待ちの人々が溢れた。


4月20日、ヘリコプターかプロペラ機か情報錯誤、なんとか朝の二便に客の9名だけ乗れてツアーリーダーとシェルパのニマさんは次の便になった。私達はラメチャップ空港で1時間30分後に再会することが出た。次は5時間の山岳ドライブでカトマンズへ。埃と黄砂にまみれた山道をひたすら走る。
午後3時ホテルラディソン着、ようやくお風呂に入れる。明日はいよいよ帰国となった。夕食は街の日本食レストラン「こてつ」にて乾杯。
4月21日最終日、早朝イエティ―エアラインにて エベレストフライトへ参加、快晴のエベレスト山群をランタン谷の方角より、彼方にチョーユ―、ギャチュンカン、プモリ、ヌプチェ、エベレスト、ローツェ、マカルー、遥かカンチュンジュンカ、再確認の俯瞰フライト、復路は反対側の窓に寄り素晴らしい1時間のフライトとなった。
ホテルに戻り久し振りのリッチな朝食バイキング。 フライトメンバー達とテーブルを囲み話しても話しても話しきれない旅の思い出に2時間近くを過ごす。午後は市内観光、王宮や薄紫のジャカランダの咲く道をドライブしてカトマンズの丘にある古刹ショーエンブナートへ、2015年の地震の後、復興が進み全く新しさを感じさせないのは埃のせいか、不思議な風合いの建物群になっていた。
今回の山旅でお世話になった人々に動物に感謝し、4月22日に無事帰国できました。お婆ちゃんのエベレスト街道23日間の旅を終わります。


(鈴木文代)

2024年03月31日